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『チベット〜その特色と歴史〜』

井上 チエ

1. 自然地理(自然条件)
  チベットの地形と気候
  チベットの自然は、広く、高く、そして厳しい。チベット高原はじつに122万kuに及ぶ地域(日本の4.5倍の広さ)である。平均高度は東部で3000m、西部では5000m以上、地球上で最も広大な高原である。中緯度地帯のなかで最も厳しい環境下にあるのがこのチベット高原で、ほとんど無人の湖沼地帯となっている。
世界に14座しかない8000m級の高峰が集中するチベット高原は、また、アジアの大河の水源地ともなっている。(長江,黄河,メコン河,プラマプトラ河,インダス河etc.)
  "世界の屋根"とよばれるチベット高原は、1億年ほど前は、"テーティス海"という大海の海底であった。その後テーティス海の北にあったアンガラ大陸に、南にあったゴンドワナ大陸(いまのインドあたり)がぶつかり、海底が隆起して陸地となった。そして、300万年ほど前に起こったヒマラヤ山脈の造山運動によって、チベット高原ができあがった。
  ラサの緯度は、九州南端よりさらに南に位置する。しかし、南国というイメージからはほど遠い。気候的には高原気候に属し、半乾燥(蔵南区)と極端な乾燥地帯(蔵北区)に分けられる。周囲を取り巻く大山脈によって塞がれた地形が、この乾燥地をつくっているのである。一方、寒冷地でもあるチベットでは、年平均気温が0℃以下のところが大部分を占める。多雪地ではないが雪で覆われている期間が長く、夏が短い。また気温の一日の変化がきわめて大きいのが特色である。
  標高の高いチベットでは、平地よりも空気が薄く、空気中の水分やチリも少ないなどの理由から、日照量が多く、輻射熱が強い。輻射熱は1月がいちばん弱く、6〜7月にいちばん強くなり、その後またしだいに弱くなっていく。冬でも日なたでは暑く感じられるのはこのためである。
またチベットでは、地区によって雨の多い所と少ない所がはっきりと分かれている。全体的に乾燥した気候のチベットのなかで、東南部は比較的湿潤な半乾燥で、西北部は乾燥がひどい。また、雨季(6〜9月)には年間降水量の80〜90%の雨が降り、特に雨季の初めの月には、乾季(10〜5月)の雨量の3〜4倍にもなり、最後の月には7〜8倍もの雨が降って雨季明けとなる。雨季といっても一日中雨が降るわけではなく、昼間は真っ青な空が広がっているのに、夜になると雷が鳴り、稲妻と共に雨がくる。それも短時間のうちにザアッと降って上がってしまうといったぐあいだ。
  乾季には風の強い日が多く、特に2〜4月は、大風の吹く日が一年でいちばん多くなる。特にエベレスト(チョモランマ、8848m)北麓地帯は風の日が多い。
年間平均気温の最高が6月の17.0℃に対し、最低は12月の0℃であり、その差は17℃である。一方、最高、最低の気温の違いは、ほとんど昼間と夜間の差によるもので、12月は最低最高の差が27.2℃で、6月は23.4℃である。このことから、年間を通じての差より、一日の中での寒暖差が大きいことがわかる。"一日の中に四季がある"といわれるゆえんである。


2.歴史の沿革
  中国南西部の大高原地帯にあるチベットは、1965年9月、正式にチベット(西蔵)自治区となり、現在に至っている。平均高度4000m以上、面積約122万kuの広大な地に、200万人の人々が暮らしている。区都はラサである。
先史時代については、あまり多くのことは知られていない。チベットが本格的に世界史の舞台に登場するのは、7世紀の初めである。ソンツェン・ガムポ(581〜649年頃)が出て、チベット高原に割拠していた諸部族を統一して国を建てた。これが古代チベット王国吐蕃である。
  843年に内紛によって、王国は南北に分裂し、精強を誇った250年に及ぶ吐蕃王国が歴史の幕を閉じると、チベットは氏族割拠の状態となった。仏教は、吐蕃王国の崩壊によって手痛い打撃を受けたが、10世紀中頃から立ち直りのきざしを見せて、やがて有力な氏族と結びつき、各地に教団を形成し始める。
  1578年、ラサ郊外にあるゲルク派の僧院デプン寺の貫主リナム・ギャムツォは、モンゴルのアルタン汗よりダライ・ラマの称号を贈られた。
1642年、ダライ・ラマ5世ンガワン・ローサン・ギャムツォ(1617〜82)は、チベット全土を統一し、以後300年にわたってチベットを支配する、政教一致のダライ・ラマ政権がこのとき誕生した。
  5世没後の政治的動揺は清朝に介入のきっかけを与えることになった。1720年、清朝はラサに兵を送ってダライ・ラマ7世(1708〜57)を立て、新政府を建てた。さらに1751年には、ダライ・ラマの下に4大臣を置き、重要な政務はダライ・ラマと清朝から派遣された駐蔵大臣の合議によって決定するという新体制を発足させた。こうしてチベットは、清朝の宗主権下の保護国の地位に転落した。
  近代に入ると、チベットは複雑な国際関係に巻き込まれ始める。18世紀にイギリスから始まった産業革命の結果、工業が著しく発達したヨーロッパ各国は、原材料の供給地とその製品の市場を求めてアジア各地に進出していた。
インドを植民地としていたイギリスは、18世紀以来、チベットに通商を求めてしばしば働きかけを行った。イギリスの野心を恐れたチベットは、インド、ネパールなどと接するヒマラヤ国境を固く閉ざすとともに、北のロシアに急接近した。チベットをイギリス領インドを守る生命線と考えるイギリスは、ついに国境の強行突破を決意。1903年、イギリス領インド軍の「武装使節団」をチベットに侵入させた。
  イギリス軍はチベット軍を蹴散らしながら進み、翌1904年8月、ラサに入城した。この時のダライ・ラマ13世トゥプテン・ギャムツォ(1876〜1933)は、その直前にモンゴルへ亡命した。同年、イギリスとチベットの間でラサ条約が締結され、チベットにおけるイギリスの優位が確定した。13世は、その後北京に行き、1909年にラサに戻るが、その翌年清軍に攻め立てられ、今度はイギリスの保護を求めてインドに亡命する。
1911年の辛亥革命で清朝が倒れる。その翌年ラサに帰ったダライ・ラマ13世は、チベットの独立を宣言する。しかし、イギリス、中国、チベットの代表者によるシムラ会議(1913〜14)では、チベットの独立はついに認められなかった。
  第二次大戦後の1949年、新生中華人民共和国はチベットを中国の領土の一部と宣言。1951年には人民解放軍をチベットに進駐させ、チベット政府との間に平和解放協定を結んだ。その後中国支配の進展にともない、チベット各地でしだいに抵抗運動が激化し、1959年3月、ついにラサで大暴動が発生した。このさなかにダライ・ラマ14世テンジン・ギャムツォ(1935〜)は、北インドのダラムサラに亡命政府を樹立した。非暴力による民族独立を訴え、宗教活動と合わせて各国を歴訪するなど平和運動家としての活動が認められ、1989年にノーベル平和賞を受賞した。14世亡命後のチベットでは中国による社会主義国家建設のための政策が推進された。


3.観音菩薩の化身、ダライ・ラマ
  宗教的な意味でのダライ・ラマはシガツェのタシルンポ寺の住職ゲンドゥン・トゥプから始まり、人々を救うためにこの世に現れた観音菩薩の化身とさ   れている。ゲンドゥン・トゥプはチベット仏教最大の宗派であるゲルク派の宗祖ツォンカパによって見出された人物で、この頃はまだ、ガンデン・ティパの下で仏教最高の儀式を行う活仏であり、"ダライ・ラマ"の名はまだなかった。
初めて"ダライ・ラマ"とよばれたのは3世である。16世紀末、デプン寺の貫主だったソナム・ギャムツォに、モンゴルのアルタイ汗が「大海のラマ」という意味のこの称号を贈ったことに始まる。後になって、この3世以前にも転生者(生まれ変わり)のいたことがわかり、前記ゲルドゥン・トゥプと2世のゲルドゥン・ギャムツォもダライ・ラマとよばれるようになった。
  政治的な意味でのダライ・ラマは、チベット全土を再統一し、政教一致の政府を建てた5世のンガワン・ローサン・ギャムツォからである。17世紀中頃、5世の摂政サンギェ・ギャムツォが、モンゴルのホショート部グシ汗から多額の寄進と庇護を受けてチベットの政治制度を確立した。この制度はダライ・ラマをはじめ、僧侶や政治を合護する人たちをあらゆる階層から選び、宗教者の立場から戦争に反対し、為政者には徹底した教育を施し、宗教によって民族団結をはかるという、仏の慈悲を平等に民に与えようとするものだった。
  このダライ・ラマは世襲されることはなく、仏教の輪廻思想に基づいて選ばれる。ダライ・ラマがしぬとその生まれ変わりが49日を経て受胎される。その子が産まれて5歳くらいになったとき、その年齢の多くの子供たちの中から、先代の遺言や生前のダライ・ラマの身体的特徴などに一致する子供を探し出すのだ。そしてラサに連れ帰り、徹底した宗教、政治両面でのエリート教育を施す。この間10年以上も政治の最高責任者がいないことになる。
さて、現在のダライ・ラマであるが、1935年、アムド地方タクツァに生まれ、1940年に即位。1959年にインドに亡命し、1963年にはチベットの民主憲法を公布した。
  宗教家としては、世界各地で平和活動のためのレクチャーや祈願などを行い続けている。最近では、欧米のみでなく、モンゴルや台湾なども訪れている。
  ダライ・ラマ14世は、1989年にノーベル平和賞を受賞し、中国政府が神経を尖らせているため「私は中国政府の目の届かぬ所に転生する」と明言し続けている。


4.チベットの葬礼
  チベットには五種類の葬法がある。どの葬法をとるかは、故人とその家族の経済力や個人の社会的地位、あるいはその死に方によって異なっている。
  「鳥葬」はチベットの「奇習」として有名である。中国人はこれを"天葬"とよんでいる。なんでも鳥が魂を天に運ぶからだそうだ。しかし、実は魂はすでに葬式の段階で抜かれている。だから死者の肉体は単なる肉の塊。つまり鳥葬というのは、その肉の塊となった肉体を鳥に布施して自然に返してやるということなのだ。
  さて、その方法である。鳥葬の前日の葬式では遺体を白い布に包んで部屋の一隅に安置し、僧侶の読経によって肉体から魂を解き放す。その魂を抜いた肉体を夜明けと共に鳥葬場に運ぶ。いくつもの深いくぼみのある、大きな平たい岩の上に遺体をのせ、遺体の処理人が衣服を剥ぎ取る。そしてハゲタカが食べやすいように遺体を分解し、骨を砕くと、笛を吹いて鳥たちを呼ぶ。集まったら鳥たちはものすごい勢いで肉をついばむ。肉片がたまに残るが、それは焼かれて終わる。すべてが天に環るのである。
  この鳥葬は釈迦が生きていた時代のインドにもあった。一般のチベット人が亡くなるとこの方法で葬られる。
伝染病で死んだ人の遺体は鳥に食べさせず、土に埋葬する(「土葬」)。罪人の遺体も同様だ。古代チベットでは、王の殉死者が土葬されていた。また四川省や甘粛省など、昔から漢族と接触が多い地域では土葬が一般的。
罪人と貧しい人々、乞食、未亡人、幼児などは「水葬」(遺体をばらばらにして川に流す)にされる。
高貴な人や名僧は「火葬」にされ、灰は風にまくか、川にまいて流される。森林に恵まれた東チベットでは、一般の人々でも火葬にされる。
大ラマの遺体は、塩漬けにしてミイラにし、金箔を押して、霊塔の中に祀られる(「塔葬」)。その塩は薬として珍重されるという。


5.感想(自分の体験談)
  今年の夏休みに中国へ旅行し、チベットには8/12〜21までの10日間滞在しました。
チベットに行くにあたって最も心配していたのが"(急性)高山病" でした。なぜなら、最悪の場合、命を落とすこともあるからです。この高山病を恐れるあまり、対策として、水を飲み過ぎて逆におなかを壊してしまい、10日間の半分は苦しむことになりました。結局、高山病にはならず、このことから、備えをしておくというのは大切ですが、個人差が大きいので、自分の体調にあった適度な対策をすべきだと実感しました。
"チベットだ!"という実感は、やはりポタラ宮(ダライ・ラマの宮殿、冬の政庁)を見た時初めて湧きました。街では、マニ車を回す人や、五体投地をする人を目にし、昔から変わらない信教深い人々の生活に触れ、反面、野良犬やハエ、物乞いの子供達もたくさんいて、貧しい地域という印象も強く持ちました。
  現地の人々と交流(接)したといえば、2通りありました。1つは、ラマ僧とで、ポタラ宮や大昭寺といった観光地に行けば会え、彼らは英語や日本語が堪能で(中国語は避けている)コミュニケーションが取れました。一番印象に残っているのは、その中の一人がダライ・ラマ14世の写真を持っているのを見せてくれて、「これが(中国政府に)見つかったら、牢屋に入れられてしまう」って言ってたことです。もう一つは、貧しいチベタンの子供達(物乞い)です。彼らは観光客を見ると、必ず近寄ってきて、物を欲しがります。今でも鮮明に覚えていることがあります。それは、ある夕食時に中華料理店に入った時のことです。私が入口側に座ると物乞いの子供がずっと後ろにいて離れないのです。体調があまり良くないので残していると、それを欲しいと言います。私は物乞いの子を見ると、とっさに目を合わせないし、物も与えないという態度を取ってしまいました。他の人が店主に了解を得てから、彼らに残り物を与えたのですが、その場では食べずに汚れた袋に入れて持ち出し、道の隅で兄弟でこそこそ食べている様子を見て、やりきれない気分になりました。ホテルに戻って同室の人たちと、その事について話したのだけれど、話していくうちに、私のとっさの"物を与えてはいけない"という反応は、物を与えた時点で、同じ(対等の)人間ではなくなってしまうような気持ちになるのを避けるための反応だということに気が付きました。でも、あのような物乞いの子がいるという現状にどうしたらいいのか分からないというのが、正直な私の気持ちです。
  チベットの街や人々を見ての感想は、「宗教色が濃い」「貧しい地域」という二言に尽きます。
この文でチベットに対する印象が悪くなったとしたら申し訳ありません。そんなつもりはないんです。今年はたまたま天候不順だった為に、書かなかっただけですが、チベットの自然そのものは本当にすばらしいです。人々も別に不幸なのではなく、雄大な自然の中でのんびり暮らしているという感じで羨ましいぐらいです。是非もう一度チベットを訪れたいと思っています。

■ 参考文献
・ チベット[マンダラの国] 奥山直司/小学館/1996.6
・ 地球の歩き方40 中国Cチベット '97〜'98版/ダイヤモンド社/1997.6
・ ノーベル賞受賞者業績事典