新彊ウイグル自治区(Xin jiang Wei wu'er Zidiqu)gotou.gif (20252 バイト)


『"東トルキスタン民族独立運動"を研究する前の下ごしらえ』

後藤 寛志

 新彊ウイグル自治区は、中国の西北端に位置し、その面積は164万6800kuと中国総面積の約6分の1を占め(もちろん中国最大)、稟告モンゴルよりも大きい。また、モンゴルをはじめ、ロシア、カザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、パキスタン、インドと国境を隔て、その境界線は5700kmにも達する。機構は大陸性乾燥気候で、決して住みよい、環境ではない。また、経済もさほど発展しておらず、どちらかといえば、貧しい地域に区分される。そして、この広大で厳しく、貧しい土地に約1660万人の人が住んでいる。そのうち少数民族は約950万人(全体の57.2%)を占め、その少数民族の大部分は、イスラム教を信仰し、中国本土とは違った独自の文化をもつウイグル民族である。
 しかしこういた比較的地味な地異域が、最近(1990年代末から)注目されるようになった。その理由は2つある。ひとつは、1988年11月以降、新彊ウイグル自治区南部にあるタリム盆地(面積約53万ku)で油田が相次いで発見されたことである。その可採埋蔵量は100億バレル(1バレル=約59s)以上であり、未開発の油田としては世界最大級ともいわれている(油質はあまりよくないともされているが…)。ちなみに、新彊ウイグル自治区の石油埋蔵量は、中国全土の約3分の1を占めるとされている(ただし、この値は資料によってまちまちである)。このことから、経済発展と工業化を急ぎ、電力・石炭、特に石油などのエネルギ−資源の不足が表面化している現在の中国にとって、新彊ウイグル自治区の重要性はますます大きくなっているのである。
 そしてもうひとつの理由は、前述したように新彊ウイグル自治区の重要性が増してくると同時に、新彊ウイグル自治区に住んでいるトルコ系イスラム民族(ウイグル族、カザフ族、キルギス族、ウズベク族、タ−タル族の5つの部族を指す)のナヨナリズム(民族主義)の高揚がみられ、ウイグル民族を中心とした「東トルキスタン民族独立運動」が再燃し、各地で暴動事件が頻繁に起こっていることである。ここで、その暴動事件の例を2つほど紹介してみようと思う。まずは、1990年4月に20人以上の死者を出したアクト県バリン(barin)郷の暴動である。この暴動では「聖戦を起こして、中国人(=漢民族)を東トルキスタン駆逐する」というスロ−ガンを掲げた秘密組織「東トルキスタン・イスラム党」の存在を明らかにし、民族主義者が組織的に統合されていることを示した。また1996年5月12日には、「東トルキスタン民族独立」を主張する秘密組織によって、新彊ウイグル自治区最大のエディカル・モスクのカリフ。自治区政治協商会議副主席アロンハン・アジ氏に対する暗殺未遂事件が起こった。
 「東トルキスタン民族独立運動」を担う民族主体は、前述した通り、ウイグル民族を中心としたトルコ系イスラム民族であり、彼らが目指しているのは、新彊ウイグル自治区におけるトルコ系イスラム民族の民族国家の建設である。 それが最初に現れたのは、1933年の「第1次東トルキスタン民族独立運動」であった。しかし歴史上の事件には偶発的側面もあるが、前例のない「東トルキスタン民族独立運動」が、突然、100万単位の人民を動員し、新彊全域に運動を展開したことから、近代新彊社会に民族問題を誘発する要因が存在していたことがわかる。そこで、ここからはその要因の原点と考えられる2つの事柄を書き著していこうと思う。ひとつは「新彊におけるナショナリズム(民族主義)形成の過程」、そしてもうひとつは「漢民族による民族抑圧」についてである。


 新彊におけるナショナリズム(民族主義)形成の過程
 そもそも、「トルキスタン」とは「トルコ系の人々の土地」の意味であり、通常、中国領の東トルキスタンと旧ソ連領の西トルキスタンに二分される。しかし、地理的な概念を表す「東トルキスタン」は、空間と時間のどちらの視覚からみても、必ずしも明瞭ではなかった。空間的に不明瞭というのは、「東トルキスタン」が、時には新彊南部(タリム盆地とその周辺地域)を、時には新彊東部(ハミ盆地周辺)を、また時には新彊全域を指すからである。そして、時間的に不明瞭というのは、トルコ系住民が移住する以前から新彊を「東トルキスタン」とよんでいる文献があるからである。
 何にせよ、こういう「東トルキスタン」という意識はウイグル民族を中心とするトルコ系の人々に深く浸透し、その意識は「近代ウイグル文化啓蒙運動」に関わっていたのである。
 「近代ウイグル文化啓蒙運動」とは、19世紀から、ウイグル社会の外国との交流を拡大するために、「自己のアイデンティティに対する深刻な危機感」をもつようになった「新しい知識層」と「一部のウラマ−(イスラム教聖職者)」が、新式学校教育(イスラム教育の他に歴史、地理、数学、科学など近代科学知識も教える施設)の普及を中心に始まったものであり、第1次世界大戦末期の世界各地の民族意識の覚醒にともない、1910年代後半に高揚期を迎えた運動のことである。そしてこれは、ウイグル人にとって初めて明確に現れたナショナリズムである。ここで注目すべきことは、ウイグル知識人の知識の供給先は旧ソ連、特にウイグル民族と同じ民族社会であるトルコ系イスラム民族であるタ−タル民族(タ−タル社会)や、これまた同じ民族社会を形成しているトルコからであったことである。なぜこのことに注目しなければならないかというと、ウイグル民族は同じ民族社会をもつこの2つの社会の影響を受け、「我々の祖先はトルコである」という「汎トルコ主義」に辿り着いてしまったからである。また、1933年に「東トルキスタン民族独立運動」が発生した当時、トルコ留学の経験をもつ人間の支援があったことから、トルコに留学したウイグル知識人と近代ウイグル文化啓蒙運動との、そして「東トルキスタン民族独立運動」との緊密な関係がうかがわれるからであり、また、近代ウイグル文化啓蒙運動の主要なメンバ−のほとんどが「東トルキスタン民族独立運動」の指導者になっていたからである。
 以上が「東トルキスタン民族独立運動」の要因のひとつとなった、ウイグル民族をはじめとするトルコ系イスラム民族(以降ウイグル族と略す)のナショナリズム形成の過程である。


 漢民族による民族抑圧
 前述したように、1910年代を最盛期として、ウイグル民族のナショナリズムが形成、成長していく一方で、新彊にはすでにそのナショナリズムが爆発する導火線が用意されていた。それは朝末期から中華民国に至って、増加の傾向にあった漢民族の移住であり、彼らによるウイグル民族への抑圧であった。というのも、このころの新彊の支配層はほとんどが漢民族出身者であり、ウイグル特有の文化があり、経済があり、行政組織があり、社会があった)のである。しかも、新彊地域社会において、政治主導権を握っている漢民族支配者は、社会の発展に何の役割も果たせなったし、果たさなかった。というよりも、むしろウイグル民族にとっては彼らの政策は迷惑以外のなにものでもなかったのである。なぜなら、漢民族支配者がきて、ウイグル民族がイスラム教徒であることを否定し、彼ら独自の民族的社会の破壊、いわゆる「文化的同化政策」を行なったからである。これらは、明らかに民族抑圧であり、民族差別であった。したがって、こういったあらゆる分野での民族抑圧と民族差別は、当然、ウイグル民族のナショナリズムを刺激し、彼らの漢民族出身の官僚はみな剥奪・虐殺する悪魔であり、そして漢民族出身者もすべてそのような悪魔であるようになる」いうような考え方をもつようになってしまったのである。こうして、新彊地域社会において「抑圧された民族(=ウイグル民族)」対「抑圧する民族(=漢民族)」という、まさに最悪な社会構造が形成されてしまったのである。
 こういった点などから、ウイグル民族の漢民族に対する怒りは蓄積され、ついに1931年3月に起こった「ハミ蜂起」に端を発する「第1次東トルキスタン民族独立運動」が展開されたのである。そしてこの「ハミ蜂起」によって、「東トルキスタン民族独立運動」の思想の原点が、ウイグル民族たちの「民族の土地の解放」・中国の支配の打倒」という民族独立にあることがわかった。またこの思想は発展を続け、1944年に起こった「第2次トルキスタン民族独立運動」、そして、65年以上を経た現在なお続く「東トルキスタン民族独立運動」へと引き継がれているのである。このことから、「東トルキスタン民族独立運動」は、まさに近代ウイグル民族たちの歴史を貫く太い糸のような存在であり、近現代中国の歴史にとっても欠かせない存在であることがいえると思う。したがって、「東トルキスタン民族独立運動」を正しく認識・評価することは、多民族国家中国に組み込まれたウイグル民族たちを理解し、次世紀の中国の未来像を把握する上で、大きな価値があるものと思われる。また、そのためにも、我々はもっとウイグル民族のことを知らなければならないのである。

…中途半端ですが、これで終わりたいと思います。

※参考文献
 ・王柯著『東トルキスタン共和国研究−中国のイスラムと民族問題−』
 ・『中国年間 '97』
 ・『世界大百科辞典』