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『清朝支配下からの独立』


馬場 美貴子


◆ モンゴル史の時代区分
地図を見ればわかるように、現在のモンゴル民族の居住地は国境によって大きく3つに分断されている。北から順に、ロシア連邦内のブリヤート共和国、独立国であるモンゴル国(いわゆる外モンゴル)、中華人民共和国内の内蒙古自治区(いわゆる内モンゴル)の3地域である。モンゴル民族はこのほかにも、ロシア領内ではカスピ海北西岸ヴォルガ川河口西部のカルムイキヤ共和国、中国領内では新疆ウイグル自治区北部、青海省などにも居住している。そしてこれらの錯綜した居住形態には、一つ一ついわく因縁が存在し、歴史を詳しく振り返ってみないとその理由は理解できない。
モンゴルの歴史というと、誰でもまず英雄チンギス・ハーンを思い浮かべるであろう。その通りモンゴル民族は、まぎれもなくチンギス・ハーンその人によって13世紀に統合・形成された。
彼が登場する以前のモンゴル民族は、後にモンゴル高原と呼ばれることになる草原地帯の中の北東の一隅に存在するごく少数の遊牧集団に過ぎなかった。しかしチンギス・ハーンの勢力拡大とともに、その直接の傘下に入った人々がこぞってモンゴルを標榜するようになり、モンゴル帝国の世界支配が崩壊した後も、モンゴル高原に残った遊牧民の大多数はそのままモンゴル族を名乗り続けたのである。
13世紀に新たに「モンゴル」を標榜した人々の中には、もとのモンゴル族と同じ言語を話す人々ばかりではなく、本来トルコ系の言語を話していたと思われる人々も多い。それらの中には、オングート族のように言語も意識も完全にモンゴル化していった人々や、オイラト族(西モンゴル族)のように、14〜15世紀頃からいったんモンゴルという意識を捨てて東方のモンゴル本族と対立し始め、ずっと後に再びモンゴル族としての意識を回復した人々もいた。
ここで、モンゴル民族の歴史を区分する上で重要と思われる年代をいくつか列挙してみよう。まず、チンギス・ハーンが即位した西暦1206年、元朝の中国支配が崩壊し、モンゴル人の勢力がモンゴル高原へ後退した1368年(すなわち明王朝の成立年)、内モンゴルが清朝支配下に入った1634(〜35)年、外モンゴルが清朝支配下に入った1691年、清朝の崩壊(辛亥革命)とともにボグド・ハーン(チベット仏教の活仏ジェブツンダンバ・ホトクト第8世)政権が内外モンゴルの独立を宣言した1911年、そしてモンゴル人民党の下で外モンゴルのみが再独立を達成した1921年、ということになろう。
           
同時にこれらの年代によって、モンゴル史はおおざっぱに時代区分することができる。例えば、1206年から1368年までは仮に「世界帝国の時代」、1368年から1691年まで(ほぼ中国の明代に相当)は「モンゴル高原で独立していた時代」あるいは「モンゴルとオイラト(東西モンゴルの対立の時代)とでも命名できよう。そして1691年から1911年までは「清朝支配下の時代」、1911年から1921年までは「ボグド・ハーン制モンゴル国時代」、1921年以降は仮に「外モンゴルのみの独立時代」とでも命名することができよう。
そこで以下、清代を中心にして、現代モンゴルへの歩みを述べてみたい。


◆ ムチの清朝支配
上述の長い歴史の中で、現代モンゴルに直結するその原形ができはじめたのは、ほぼ17〜18世紀のことである。逆にいえば、チンギス・ハーン時代のことをいくら知っていても、現代モンゴルの本質は見えてこない。
この17世紀は、モンゴル遊牧民の軍事力が相対的に衰え始め、ロシアと中国に併合されていく世紀である。前述のブリヤート・モンゴル族は北西方向から進出してきたロシア帝国に併合され、内外モンゴルは中国東北部の満洲族が樹立した中国王朝清朝の領土となった。そして清朝への帰属時期の違いが、内モンゴルと外モンゴルの区別を生む一つのきっかけともなっていった。早くから清朝治下に入った内モンゴルでは、東部のモンゴル遊牧民が中心となって清朝の軍事力を積極的に支え、清朝宮廷との深い同盟関係を築き上げる。一方、帰属当初の外モンゴルでは形式的な間接統治がおこなわれたにすぎず、清朝宮廷との一体感も内モンゴルに比べればはるかに希薄なものであった。
結局17世紀末の段階で、現在の新疆ウイグル自治区北部を根拠地とするオイラト族の遊牧帝国ジュンガルを除いて、他のほとんど全てのモンゴル族居住地が独立を失ったわけである。さらに清朝は、1757年にジュンガルをも滅ぼして併合してしまうと、1780年代頃から外モンゴルでも盟旗制と呼ばれる整然たる司法・行政機構を整備し始め、同時に徹底した文書行政を強いるようになる。
すなわち北京の清朝皇帝を頂点とする中国流の官僚機構が内外モンゴルで各々ピラミッド型に形成され、例えば、徴税、徴兵、裁判、飢饉回避、北京への参勤等などあらゆる事柄に関する命令や回答・報告が、この機構を通して組織的にやり取りされ、皇帝の意思がモンゴルの隅々にまで効率的に行き届くこととなった。かつ、これらの命令や回答・報告はすべて一定の書式に則ったモンゴル語や満州語の文書でやり取りされ、各級の役所で各々整然と保管されることになったのである。もちろん、官僚は中国におけるような文官試験を突破したインテリの科挙官僚ではなく、チンギス・ハーンの血統を引く現地のモンゴル貴族であって、もとより中国本土のような純然たる官僚ではなかったが、この行政システム自体、確かに有史以来モンゴルには全く存在したことのないものであった。
これによってモンゴルは厳しい管理下に置かれ、清朝からの離脱や反乱等の不穏な動きは未然に防ぐことが出来るはずであった。清朝はさらに、モンゴル人の自由な長距離移動を禁止して「旗」と呼ばれる最小行政区画に縛り付けることによって、モンゴル人の不必要な軍事活動を抑えるという政策をも実施した。これらは、いわばアメとムチの政策のうちムチに相当する部分である。


◆ アメの清朝支配
19世紀の後半頃になると、この徹底した行政システムもさすがに緩みが目立ち始め、同時に内モンゴルは漢人商人や農民の厳しい進出にさらされることとなる。もともと明代の16世紀後半頃から、内モンゴルのフフホト周辺を中心として徐々に漢人農民がモンゴル草原に進出してはいたが、清朝は皇族の夫祖の地たる中国東北部(満洲族等の狩猟民が少人数住むのみの森林草原地帯)と、清朝の軍事力の一翼を担うモンゴル高原とには、漢人の流入を厳しく禁じた。これは、満洲族やモンゴル族の狩猟遊牧生活を保護して軍事力の水準を維持させるという目的や、彼らをなるべく優遇して清朝への忠誠心を引き出すといった目的を持つ政策であった。
満洲族とモンゴル族への優遇政策はこればかりではなく、王侯貴族を官僚として任命し、俸禄を与えることによって、その支配権力をある程度保証したり、犯罪者を処罰する際の刑法を民族の伝統に配慮して民族別に定めたりといった、少数民族政権独特の特殊な政策をも実施した。総じて、満洲族とモンゴル族が漢化(中国化)するのを断固として防ぎ、民族の古い素朴な伝統や誇りを保持させることによって、支配者側(満洲族皇室と清朝政府)軍事力や権威をも保持するという政策なのであった。
しかし中国本土での人口爆発に伴って、山東省、河北省、山西省等から真北の方角へ非合法な形で入植していく漢人は跡を絶たず、満洲族や内モンゴルのモンゴル族は、19世紀には既に南部の居住地で漢人入植者との混住状態となり、漢人農民との土地争いや漢人商人による借金取立問題等の民族紛争が各地で発生していた。
清朝によるモンゴル統治政策でもう一つ注目すべきなのは、チベット仏教の保護である。チベット仏教がモンゴルに入ったのは、もちろん13世紀のフビライとパクパの頃にまでさかのぼるが、当時はまだ一部の支配者階級に広まっただけであり、しかもその宗派はサキャ派と呼ばれるものであった。
今日全モンゴルで信仰されているゲルク派という宗派が本格的に導入されたのは、1586年にチベットのダライラマ3世がフフホトを訪れてからだと言われている。そして清朝の支配下に入るころには既にモンゴルにも活仏といわれるチベット風の生き仏が存在して、広く一般庶民の信仰を集めていた。この活仏のうち比較的厚く信仰されていたのは、内モンゴルではチャンジャ・ホトクト、外モンゴルではジェブツンダンバ・ホトクトである。ゲルク派の活仏は世襲ではなく、死んだ後も別の男の子として生まれ変わって後を継ぐという転生の形式になっており、両活仏とも何代にもわたって転生が繰り返された。
清朝政府は、モンゴル優遇政策の一つとしてこれらチベット仏教の寺院や活仏を手厚く保護した。その背景にはモンゴルを仏教的な教えで円満に統治するという功妙な意図も隠されていたはずである。以上は前述のアメとムチのうち、アメの部分に相当する政策である。


◆独立への条件
さてここからが肝心なのであるが、これら清朝による巧妙な統治政策の結果、内外モンゴルにはかつてなっかたようなモンゴル人自身による整然たる行政機構が完備され、二人の大活仏を頂点とするチベット仏教信仰に裏打ちされたモンゴル民族としてのアイデンティティや一体感が自然にできあがっていった。しかし考えてみればこれは清朝政府が最も恐れ警戒していた事態のはずではなかったか。清朝から離脱して独立国を形成するには最適の状態だからである。
清朝も少しは恐れていたと見えて、ジェブツンダンバ・ホトクトが有力なモンゴル貴族の家系に転生して過度の権力を持たぬよう、わざわざ3世以降はチベット人から転生者を選ぶという規則を定めていたのだが、そんなことは全くおかまいなしで、いやチベット人だからこそ余計にありがたみが増したのかもしれない。信仰の集まりぐあいは尋常ではなかった。
こうして、歴史的客観的に考えてみると20世紀初め頃までには、特に外モンゴルは独立国を形成するのに最も有利な条件を二つ備える結果となっていった。このうち、行政機構の方は100パーセント清朝政府のおかげであり、活仏の方も多分に清朝のおかげをこうむって整った条件である。いずれも歴史的には、清朝政府の思惑と正反対の方向へ進んでしまったのであった。
清朝の政策のプラスの面、すなわち行政機構と宗教こそが外モンゴルに独立をもたらしたといってよい。一方の内モンゴルはというと、漢人との混住によって既に中国化が進みすぎており、独立は実質上困難な状態にあった。ロシア領のブリヤートもロシア化が進み、同様の状態であった。1911年時点での外モンゴルの幸運さを確認するためには、同様に清朝治下にあった新疆やチベットの例を参考にすればより明瞭になるだろう。
この両地方では、清朝はモンゴルのような直接的な支配を実施せず、ほとんど現地任せのままであった。そのため土着勢力の完全な再編は行われず、首尾一貫した徴税・徴兵のシステムや網目のような司法・行政機構は存在しなかった。また新疆ではジェブツンダンバに近いような宗教権威を一身に集める人物は存在せず常に分裂状態であり、ダライラマ政府がモンゴルと同時期に独立宣言を発したチベットでも、統一された法律や整然たる行政機構など夢のまた夢というのが現実であった。
清朝治下の各地域は、こういう状態で1911年の辛亥革命を迎えたのであった。


参考文献 暮らしがわかるアジア読本モンゴル 小長谷 有紀