『米中友好の起爆剤となったピンポン外交』

レジュメ                               
1、政治的な背景
中国建国から文革大革命にかけて極左思想に強制された中国は鎖国政策をとりつづけ、20年ほど西方国家と外交関係を持ってなかった。社会主義陣営として建国された中国は当時のソ連と同盟を結び軍事保証と政治安定及び経済再建を確保しようとしていたが、朝鮮戦争はきかけ、勝利を得た中国が国際てきな発言力を増大した一方、ソ連に対する失望と反発が芽生え、徐々に対立になってきた。第二次世界大戦後形成された米ソ冷戦のなか中国は段々独自な勢力として成長し、腹背に敵を受けて三極構造になってきた。ニクソン大統領の対中政策の変化に従って中国側も関心もよせ、敵の敵は味方にさせようとしていた。米中関係を近づける大きなきっかけとなった第31回世界卓球選手権大会はちょうとこのような背景に中行われた。
2、ビンポン外交経緯
 @中国チームの招聘
 中国チームが世界選手権大会を参加できるよう日本卓球協会は中国に奔走。
 A米中チームの接触
 試合でアメリカチームは友好の意を表し、毛沢東は米チーム中国に招請する決意を出した。それに対してニクソン大統領も欣然同意、それで関係改善の第一歩を踏み出した。
 Bキッシンジャー訪中
 アメリカ卓球チーム訪中の契機で、中国政府は直接の交渉と会談を望んで大統領補佐官のキッシンジャーをパキスタン経由で中国に招いた。
 Cニクソン訪中
 卓球交流から始まった米中関係の中直しはニクソン訪中まで僅か11ヶ月だった。その後中国は世界41ヶ国と国交を回復した。
3、ピンポン外交の歴史的評価
 @中国:ピンポン外交はわれわれの外交攻勢の一環だ。ピンポン球が弾んで世界を揺り動かした。小さな白い球が地球を動かしたのだ。
 Aアメリカ:ピンポン外交とはスポーツの交流だけではなく、国と国同士が真剣に臨んだ外交の手段ではだろうかと。
4、米中関係の展望
 21世紀の米中関係は極めて重要であるのはあくまでも台湾問題だ。以前から今後も中国は台湾問題について「一つの中国」の原則を堅持する。アメリカは「台湾独立」を支持しない限り、米中関係の積極的な発展を期待できるだろう。

 

 

日中国交正常化への道程
日中国交正常化
1927年9月29日、日中両国が国交を正常化し、外交関係を樹立する「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」のちょういんしきがぺきんの人民大会堂で行われた。声明は前文、本文の9項目からなり、前文と本文第1項では戦争終結問題について「戦争状態の終結と日中国交正常化という両国国民の課題の実現」と「日本は過去の戦争の責任を反省し、中国の復講原則を十分理解して平和友好関係を樹立すること」を表明した。本文では、中華人民政府を唯一野の合法政策と承認し、台湾が領土不可分の一部であるという中華人民共和国の主張を理解し、尊重することとした。
波乱に満ちた道程
T.終戦からサンフランシスコ講和条約まで
1−1、日中戦争・第二次世界大戦
1937年7月7日夜半、慮講橋事件が起きた。中国側の要請で、一時停戦したが、その後も小競り合いが続き戦闘は拡大、本格的な日中戦争へと突入する。