シネ・クラブ ブログ

 

2006年6月、今月のテーマ:『失われた時を求めて』の映画化作品

 

授業「言語と文化 Ia」(金曜3限)と連動して、マルセル・プルーストの作品を映画化したものを3篇紹介いたします。

 

 

6月7日(水)、16時40分、21C教室(仏文研究室)

 

『スワンの恋』 (1984) 監督 フォルカー・シュレンドルフ 出演 ジェレミー・アイアンズ、オルネラ・ムーティ 110分/カラー フランス語版 日本語字幕付。

 

1962年にニコル・ステファーヌ はプルーストの『失われた時を求めて』を映画化するための諸権利を買い入れていた。製作者であった彼女は、作品の映画化にヴィスコンティを考えていたが、実現されなかった。ハロルド・ピンターがロゼのために書いたシナリオも実現しなかった。相談を受けたフランス人監督たちは、初めはためらい、そして断念した。結局、ニコル・ステファーヌは、「スワンの恋」だけを映画化することを思いつき、フォルカー・シュレンドルフが、ピーター・ブルック、ジャン=クロード・カリエール、マリー=エレーヌ・エティエンヌの手によるシナリオをもとに撮影する。学術的論文としばしば辛口の批評とが堰を切ったようにこれに続いた。しかし、作品は存在し、社会心理学的事例の提示というその立脚点において非常に美しいものとなっている。 ダンディであるスワンの、卑俗で「売り出し中」の浮かれ女であるオデットへの全情熱は、一昼夜のうちに凝縮される。シュレンドルフは1880年代の社交界(と裏社交界)の年代記を、また苦悩に満ちた道行の間にスワンが経験するあらゆる感覚を映画に撮影したのだ。いくつかの細部は他の場所で撮影された。そして15年後、夕暮れのチュイルリー公園でのエピローグの中で、このユダヤ人ブルジョワはその運命を完成させることになる。ジェレミー・アイアンズ  (ピエール・アルディティによる吹き替え)、アラン・ドロン(見事なシャルリュス役)、オルネラ・ムーティ、ファニー・アルダン、マリー=クリスチーヌ・バロー、ジャン=フランソワ・バルミエ、ジャン=ルイ・リシャールが、プルーストの世界の一つの適正なヴィジョンを作り出している。それが、今日再びラウル・ルイスの作品によって作り直されたのだ。

ジャック・シクリエ(ル・モン

 

6月14日(水)、16時40分、21C教室(仏文研究室)

 

『見出された時』 (1999) 監督 ラウル・ルイス 出演 カトリーヌ・ドヌーブ、エマニュエル・ベアール、ヴァンサン・ペレーズ 158分/カラー フランス語版 日本語字幕付。

 

いかにして映画製作上の無謀ともいえる企てに成功するのか?たくさんの小さな成功をうまく組み合わせることと、それから、それに加えて何物かが必要となる。プルーストをスクリーンの上にのせようという企ては、途方もない賭けである。しかしながら、最初の何シーンかを見るうちに、ラウル・ルイスが奇跡的な解決法を見つけたのかもしれないと思うようになる。一見して特別変わったところは何もないのだが、まさにそのことがこの作家の人生最期の日々を丁寧に再現する上で好感を引く点である。主要な登場人物が映っている写真を紐解くことによって時間を遡上するという手法の陳腐な単純さや、プルーストを演じる役者が彼らの名前を呼ぶと、彼らの声が立ち上がってそれに混じるのが聞こえるというやり方などがそれだ。ここにはこの映画の成功のための第一の要素がある。文芸作品の映画化というおどろおどろしさで観客を見下したりしないこと、カメラでプルーストのまねをしようとしないことだ。

そういうわけで、我々は過去への旅に出発する。我々は、世紀の変わり目をはさんで、自由に一つの時代からもう一つの時代へと行き来する。この間に、上流階級はその構成員―本物と偽者の貴族たち、銀行家たち、財を成した商人たち、浮気女や蓮っ葉女たち―の間の力関係の変化を経験するのだが、その一方では新たな時代の兆し、第一次世界大戦の大量殺戮が描かれる。マルセル・プルーストである子供は幻灯を手にしている。ここには、小説の作者が何者であるのかという底知れぬ論争はみられるが、『失われた時を求めて』の語り手については問題となってはいない。語り手は、ここでは、もちろんラウル・ルイス、映画の製作者だ。プルースト宮殿の番人たちよ、マルセルちゃんの巫女たちよ、さっさと向こうへ行きなさい。テクストのあまりにも正確な記憶に固執する者は皆、すべてを失う。映画とその映画から発する幸福を。というのは、ここには、型にはまった作風や骨董屋的華やかさやスター・システムに当初から脅かされてきたこの大河小説的映画の奇跡があるからだ。これは、人を幸福にする映画である。

ジャン=ミッシェル・フロドンル・モン

 

6月21日(水)、16時40分、21C教室(仏文研究室)

 

La Captive(囚われの女)  (2000) 監督 シャンタル・エイカーマン 出演 シルヴィー・テスチュ、スタニスラス・メラール、オリヴィア・ボナミー 108分/カラー フランス語版 日本語字幕なし(日本未公開)。

 

ガタガタ揺れるスーパー8の呑気な映像が映り、何人かの娘が浜辺ではしゃぎまわっている。彼女たちのうちの一人がカメラを固定し、何かをささやく。シャンタル・エイカーマンの新作はアマチュア映画のバカンス風景の上映とともに始まる。そこには、それが意味しうるもののすべてがある。フィルムの上に保存されるに足る幸せな過去の痕跡。しかし、このプルーストの「囚われの女」の―大変に自由な―映画化は、時間についての考察というよりはもう一つのプルーストの代表的テーマである嫉妬の探究に執着することになるだろう。

La Captiveではいきなり触知不能の疑念、疑惑、不安の雰囲気が支配する。若い女がヴァンドーム広場を横切ってオープンカーに乗り込む。若い男が彼女を追う。嫉妬のドラマ、推理小説か?めまいを起こさせるようなモダニズム的リメイクが続くことから特記されるこの奇妙な尾行は何を意味するのか?彼女は、アリアーヌ。彼は、シモン。彼らはいつもリフォームをやっている古いアパートにシモンの祖母を一緒に住んでいる。彼らは同じ寝室では眠らず、彼女が時々彼のベッドにやってくる。彼が仕事に行く時、彼女は散歩したり、合唱のレッスンに通ったりしているが、それは必ず女友達のアンドレと一緒だ。彼女は常に彼が彼女の予定についてする質問の答えを用意している。

ジャン=フランソワ・ロジェ(ル・モンド

 

 

Entrée libre. Pour plus d’information, s’adresser à Juro NAKAO (poste 7807).

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